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ドラマ教育の導入の試み
2000-2022年度の「医系の人間学」では、演劇的な要素を取り入れた単元を多く用意しました。いうまでもなく医学部医学科は俳優養成所ではありませんので、俳優養成のためのプログラムを組んだわけでないのは当然のことです。俳優養成を目的としない、演劇的要素を取り込んだ教育がさかんに行われてきた国々は、英国をはじめとして数々あり、このような教育はアプライド・ドラマ(応用ドラマ)、アプライド・シアター、ドラマ・イン・エデュケーション、ドラマ・エデュケーションなどと呼ばれ、実にさまざまな流儀が工夫されてきました。
この国においてドラマ教育がどこでもごく当たりまえのように広く行われていると言うことは出来ませんが、多くの先生方がこの国にドラマ教育を広めようと尽力してこられました。幼児教育から社内研修まで、さまざまな場でドラマ教育は行われています。ドラマ教育を狭く俳優養成のトレーニングだと捉える方々からすると、不可解に感じられるに違いありません。ドラマ教育一般については数ある成書をご参照いただきたいと思います。
管見ながら印象としては、この国でのドラマ教育は相対的には高等教育以前で行われてきているように思われます。関連する成書は幼児教育・初等教育、あるいは中等教育での使用を想定して編まれているものが多いことから、そう推察されるのです。他方、医学教育においてドラマ教育が行われているという報告はあまり聞きません。以下に記すのは、医学教育におけるドラマ教育の意義と、2000-2022年度の「医系の人間学」でのドラマ教育の実際です。
医学教育におけるドラマ教育の意義
ドラマ教育は、創造力を伸ばすなどのさまざまなねらいで行われていますが、本学医学部医学科では、対人関係能力、しかも相手に合わせて臨機応変に関係性を作りそだてる、しなやかな能力を伸ばすことを第一の目的として導入されました。前述のとおり、医学生に演技力をつけさせるために導入されたわけではありません。
従来、病院での臨床実習が始まる段階の前までは医学教育は、座学による知識伝達・暗記型教育と、実習での基本手技取得教育が主で、対人関係能力に照準を合わせた教育はほとんど行われてきませんでした。今日、医学生のほとんどが臨床医を志向しています。臨床医にとって必要なのは専門的な知識・技能だけであって、対人関係能力は無用であると考える方は少ないでしょう。患者・家族と直接接する機会のない部門もあるにはありますが、基本的には医療職は対人関係職です。そしてある水準以上の対人関係能力は、臨床実習においても求められます。一方で、時代や社会のありようの影響か、中堅以上の臨床医から見ると、全体的にみると若い学生や研修医の対人関係能力は、以前と比較して低くなっていると感じられるようです。これが、医学教育にドラマ教育を導入する背景であり、綜合科目でありかつそのために時間を確保することができる「医系の人間学」がその枠として適当と判断されました。
臨床現場では医師をはじめ医療職は視診や触診にはじまり医学的所見を取る立場です。このため、自分は観察者であると考える傾向にあります。しかし患者・家族からすれば、医療職は観察の対象です。医療職は患者・家族から常に見られています。自分を単なる観察者だと思いこんでいる医療者は、自分たちが観察されていることに、自分たちが意図せず意識せずつねにすでに表現していることに気づいていません。ドラマ教育は、学生たちの、表現者としての自覚を促し、言語的・非言語的な表現能力を高めるための絶好の機会です。いうまでもなく、相手と良好な関係を築くためには自分の言語的・身体的表現能力をみがけばよいというわけではなく、相手の言語的・非言語的な表現を受け止め、多角的に解釈する能力、心情に思いめぐらせる想像力とにみがきをかける必要があります。ドラマ教育はこうしたことを総合的に行う場です。
付言すると、ドラマ教育は、用意されたマニュアルに機械的にしたがう硬直化した対応パターンの習得を柱とする面接技法研修とは根本的に志向性が異なります。ドラマ教育は、こちら側が用意したトラックに相手を乗せるのではなく、相手の心情やニーズ、関心、個別的な諸事情にしなやかに合わせていくことを大切にしています。
ドラマ教育の組み立て
インプロ(即興演劇)
一年次には、インプロ(即興演劇)の授業(1回3時間)が3回組まれています。各回とも、前半は他大学から招聘した専門家によるレクチャーと、インプロ俳優たちによるデモンストレーション、後半はグループに分かれて学生たち自身が実際に身体を動かしてみる、さいごには振り返りを行うワークショップの時間となっています。インプロは、二年次、三年次にもそれぞれ2回組まれています。3年間で計21時間がインプロに当てられています。
インプロでは医学・医療という特異的な状況に寄せた教育は行われません。身体を実際に動かして表現し合う、テーマごとに選ばれたシアター・ゲームを楽しみながら硬直した心身をほぐしていく、基礎的なワークを行う単元です。
インプロの思想と本学における教育の実際については、日本医学哲学・倫理学会の学会誌『医学哲学 医学倫理』41号(2023年9月刊行)に依頼論文が掲載されることになっています。
クリニカル・シアター
アウグスト・ボアールによるフォーラム・シアターに想を得て、医学教育に寄り添わせた形のドラマ教育がクリニカル・シアターです。クリニカル・シアターでは臨床現場を舞台とした台本が用意されます。舞台の経験を多く積んだ俳優たちによってこのドラマが教室前方で演じられます。このドラマは場面ごとに中断されます。学生たちはそれぞれの場面で、医師の言動に修正提案をしたり、ドラマで演じられたのとは別様に実技し直してみたり、あるいは続きを引きついで応対してみたりします。学生たちの実技に応じて、患者・家族・同僚役の俳優たちは瞬時に即応して台本がないドラマを展開させていきます。学生の一挙手一投足が別の展開を生むわけですから、教室に居る学生は全員、自分たちが単なる観察者ではなく、当事者の一人であることを肌で感じることになります。ジョーカーと呼ばれる司会進行役を教員がつとめますが、同じ場面で1〜3名の学生が実技を行い、この実技に対して、発言内容のみならず非言語的表現の仕方についても俳優陣や他の学生がフィードバックを行います。このフィードバックを通して、学生は自分の表現が相手にどのように受け止められているのかを知ることができます。前方で実技をしない学生は、前方で実技をする学生や、フィードバックから多くを学びます。
クリニカル・シアターは二年次と三年次に、毎月一回の頻度で行われました。この修練の積み重ねによって、学生たちのありようが大きく変わったことは授業に携わった俳優陣、教員全員が感じるところです。
クリニカル・エチュード
1回3時間のクリニカル・シアターの授業枠で実技を行い、フィードバック・コメントをもらえる学生は十余人にすぎません。多くの学生は観察者となってしまいます。この欠点を補うためにクリニカル・エチュードが三年次に組まれました。クリニカル・エチュードは8〜9名ごとに12のグループに分かれ、2週間前に行われたクリニカル・シアターのワンシーンを全員が実技したのち、一人ひとりの実技の録画を見直しながら他の学生と俳優・教員全員がフィードバックを行うという仕組みになっていました。
* 以上の記述は2020〜2022年度の「医系の人間学」のプログラムについてのものです。2022年度後期からクリニカル・エチュードは実施できなくなり、2023年度以降、クリニカル・シアターも二年次と三年次に行われなくなりました。かたちをかえて(学生による実技を前提としないかたちで)「医の倫理学」の中でクリニカル・シアターのみが行われます。