授業中の発言について



 「医の倫理学」「医系の人間学」は基本的に学生参加・熟議型の授業です。講師による講義形式の回もありますが、これはあくまで例外的です。学生参加・熟議型のかたちをとるのは、見方や立場の多様を浮き彫りにしつつ、反省的・批判的に物事を検討する能力を鍛えてもらうためです。それゆえ、初回ガイダンスでお伝えしたように、学生のみなさんの「身の丈」のレベル・進度で展開される授業になります。
  これらの科目は教室という場での、異他なる個々人の間の意見交換、相互批判(他人の意見に対して同様、自分の意見に対しても)をテコにして行われますので、基本的には独習によってはその目標に到達することは果たせません。教科書の理解を深めることそれ自体によって学習はおわりません。全員が教科書を深く読み込むことを求められているのは、熟議のレベルを低いものにしないためです。多くの学生が早い段階で教科書を熟読してくれたら、それだけ早いうちから教室内の意見交換の質は高くなります。教科書を熟読してほしいのは、教科書理解度試験での個々人の点数をあげるためというよりは、授業の質をあげることそのことを目指しているからなわけです。
  ときとして教員が学生間の熟議に介入して、問いを差し向けたり、ある発言に対して疑問を投げかけたり、あるいはもう少しくわしく説明してほしいと言ったりすることがあります。これは議論をより深くみのりゆたかなものにするためです。しかし基本は学生間の熟議です。あくまでも、ここぞ、というタイミングで介入するよう心がけています。仮に学生が発言するたびに、これに教員ばかりが応答していたら、教員と特定の学生との間のキャッチボールのようになってしまい、他の学生たちは球をさわれなくなってしまいかねません。こうした対話から学んでいただくこともひとつなのですが、毎回そうするわけにはいかないと考えています。
  ひるがえって、とある学生の発言に対して教員が何も言わないからといって、その発言を教員が肯定している、高く評価しているとは限りません。もっと違う意見や反問、批判的な発言が出てきて、その意見がよくよく点検されることになるのを期待するがために、その場ではあえて教員が口をはさまないことにする、ということは実際によくやっていることです。この点、どうか誤解がないようにしてください。教員に口をはさまれたらその意見はダメな意見で、黙っていたらいい意見なんだな、などということはまったく見当違いなのです。どうかご用心。教室内で出された意見をよくよく検討しないまま鵜呑みにするというのは、危ないことです
  もうひとつ、ある意見に質問や疑問を差し向けたり、そうかなあ、同意できないなあと言ったりした場合、その意見こそが検討の対象とされているのであって、意見を出してくれた人の人格を攻撃しているわけではないということ。言表と人格との区別、この区別がつかずに憤慨したり悲嘆に沈んだりする学生が毎年います。意見交換や批判的検討が、攻撃や全否定ととらえられてしまうと、これらの科目はもはや成り立ちません。これらの授業において、原点(0,0,0)、正邪善悪正誤の基準点に立つ人はいません。独善的に自説にしがみつき、対話や点検を拒否する姿勢は、この授業にあって問題視されます。このことはガイダンスでお伝えしたとおりです。
  教員が自説や自分の価値観を押しつけてくるのが耐えがたいと言う学生も毎年います。教員が自説を展開するのは研究発表や論文の中、研究者を対象にしてであって、教室で学生のみなさんを自分の信奉者にしようなどという動機は持ち合わせていません。教員は、たとえていえば、餅つきの時の「返し手」(搗かれた餅をこにょこにょする)を務めている、もっと別の表現をすれば、議論の畑をやわらかく耕そうとしているわけです。その際、教員が言表したことが教員自身の個人的な見解であるとどうか勘違いしないでほしいと願っています。教員はこの領域における論争とその歴史をふまえて、いわば腹話術師さながらに発言していることがほとんどです。ここでも、教員の発言を絶対視したり鵜呑みにしたりすることは、危ないことです、と再度強調しておきます。どんな見方・考え方にも強みがあり弱点があるものです。それらに丁寧に、さまざまな角度から光を当てること、それがこれらの授業でやることです。 (2021.4.24)