前橋文学会は

総合文芸誌「前橋文学」(愛称 まえぶん)を刊行し、月例文芸読書会

主催する、自由な任意団体です。数年間、群馬大学の学生サークルとして

活動いたしましたが、「前橋文学」10号を出版(2022年12月)ののち代表者・

編集長が卒業となったのを機に、原点回帰し、任意団体として活動を継続

してくことになりました。(2023.3.5)



ありふれた出会いに、ありふれたネーミング
シニフィアンがひとり歩きしすぎるこの世の中で
何千の、何万のその他のモノそのもののなかで埋もれながら
しかし確実にテイムしていくことで
かけがえのない唯一の存在に生成してゆくということを
予感させながら、新しい関係が始まっていくのだろうか
          (創刊号 巻頭詩  伊東隆雄「ポチ ザ ドッグ」1 より)


――創刊号(2000.1.21)編集後記 から  

□伊東氏との数夜にわたる前橋の夜の酔いのなかの一言から「前橋文学」
は生まれた。実ははじめ「新前橋文学」という名がつけられていた。「前橋文
学」なんて雑誌はすでにあるだろうと推測していたが、調べてみると、そんな
直球的雑誌はなかった。それなら「新前橋文学」じゃ駅の名前みたいだし、
一度つぶれてもう一度立ち上げるときに付ければいい、と「新」の字をはず
した。原稿募集のビラを群馬大学内のいたるところに貼ったところ、集まった
原稿は医学部学生と小生の仲間(殆どは今はなき旭川医科大学「桟敷」文
の会の残党、また多くが非常勤講師として今年、群馬大学教養教育の黒板
の前に立った)の混成となった。「前橋文学」はこうして大学公認学生サーク
ルとしてでなく、中年×学生入り乱れてのスタートをきった。雑種特有の野
生味と可能性が備わっているかどうか、これからの展開にご注目いただき
たい。(服部)

◎学校の宿題以外で文章を書く、ということとは無縁だった私が、とことん迷
った末に何故か書いてしまった。しかも人の目に触れてしまうような形で。こ
れは私にとってとてつもなく恐ろしいことであった。恐らく今回が始めての執
筆となった人は皆少なからず同じ思いを味わったことと思う。書くということ
で自分のなかの空虚な穴を目の前に突きつけられた。それから目をそらそ
うとしても、書きつづける限りそれは無理なことなのだった。でもその洞穴の
底を見つめるためだけにこの先私は書き続けるのかもしれない。きっと「前
橋文学」はそれを許してくれるだろう。(宮城)


――第5号(2003.5.17)編集後記 から  

世界中で新型肺炎が猛威を振るっています。この騒ぎがなければいまご

ろ北京の路地裏で餃子を食べてるところでした。さて前文第五号が日の目
を見ることになりました。小生は編集の実務にはまったく貢献できませんで
したが、作品がかたちになるプロセスで多少はお役にたてたと思っていま
す。いままでの前文では、かなり独善的なつまらないものを投稿しながら、
その後の合評会をふくめ意見のやりとりがまったくできないという不毛な作
品もありました。謙虚に批評を受けることを、あえて拒否する悲しい書き手
もいました。しかし今回はちがいます。書き手と編集者との共同作業という
作品がいくつもありました。書かれた作品はウンコみたいなものです。ウン
コになるまえに味わうところが楽しいのです。作品ができあがっていくプロセ
スを共有できたことが小生にとってなによりの収穫でした。一割の自己満足
と九割の自信喪失、これなんだよね、文章書いて自分をさらすってのは。さ
あ、つぎもがんばろう。(伊東)

▼文学とは何か。そういう演題で話をする機会が増えた‥‥。先日、前橋
へ講演にやってきた詩人の荒川洋治がそんな話をした。ちょうど私が詩を
読み、自分でも書こうとし始めた二十年前、荒川は「新しいぞ私は」と息巻
いていた。「文学とは何かという演題を頻繁に要請されるほど、文学が低迷
している」というのが今回の講演の趣旨だったのだが、見方を変えれば、そ
んな気鋭の若手ももう大御所になろうとしている、ということだ。翻って同人
誌はどうだ。文学とは何か、という原初的な問いがあふれている。例えば
「涙温泉」。私は執筆過程で、見たこともない「悲しさ」をこの小説の中に発
見した。結果として成功したのか失敗したのか、それはわからない。しかし
原石のきらめきがあること、それが同人誌の醍醐味のひとつである。荒川
はいまだに「新しい方法に挑んでいる」と講演を締めくくり、底知れぬ若さと
パワーを感じさせた。「前橋文学第五号」を贈呈しなくては。(徳永)




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