このたちこめる暗雲の中

現実の裸体をみつめ

その深淵に脈うつ律動をとらえ

表現行為を媒介に

内なる「私」をみつめ

彼人のこころをみつめ

新たなる現実を創造する

そこに迸る

可能性の文学


           (なかむらかつみ)




「桟敷」復刊号 (1991) 編集後記 より 



 当初の計画より大幅に遅れましたが、ようやく後記を書くところまできまし

た。ひとえに小生の怠惰のせいと反省するとともに、玉稿を寄せていただい

た皆さんにお礼申し上げます。また、今回残念ながら掲載を見合わされた

諸兄には、是非次の機会に協力をお願いします。



 学生時代の一時期、書くことによって自分を定位しつづけてきた我々です

から、この習癖がそう簡単に抜けるとは思えません。日常の診療や研究に

追われ、じっくりと自己と向きあうことができなくても、また仮に、診療や研究

こそが自己実現への道だと確信しているとしても、いずれ書かざるをえない

ときが来ることと思います。おそらく一生、「桟敷」という悪霊の影がつきまと

い、我々は逃げきれないだろうと予感しています。               



 小生も久々に詩を書くことの楽しさと苦痛とを味わいました。手元には未

完の「小熊論」のノートがあり、無言のプレッシャーをかけつづけています。

次の機会までの、岡田先生からの宿題と思っています。合評会では思いき

りタイムスリップするのを楽しみにしています。                 

(伊東)







 木造仮校舎の石炭ストーブを囲む定例読書会に端を発した「桟敷」文の

会の名が、昭和48年以来の大学のサークル登録から抹消されたのは平成

2年の春のことです。その半年前に伊東氏と小生は有楽町のガード下で焼

鳥の串を舐めつつ、「桟敷」復刊を夢みていました。              



 戦後初設立の国立単科医科大の6期生として入学してまもなく、哲学の初

回講義に際し「医大中の人生の落伍者が集まる文芸部に入りたい人は来

るように」という当時42歳の黒髪の助教授、岡田先生の潤んだことばに誘

われ、居酒屋「たちばな」の暖簾をくぐって以来、小生の人生設計は変わっ

てしまいました。おりしも会を草創した一期生は未だ在学中で、核となる

面々は「いい作品を書いた者の習い」で留年の身、ときに優しくときにラヂカ

ルに、たいていはみさかいなく語り合い、痛飲したものです。貧寒ながら日

参するので合成焼酎を呑むのが定法でしたが、とまれ「桟敷」」はあたたか

い居酒屋の父さん母さんの懐中で育てられたわけです。           



 自動車教習所を去るように母校を離れ7年が過ぎました。13号以来7年半

も肝性脳症による?昏睡に陥っていた「桟敷」が目をあけるときに編集後記

を書くというのは感慨深いものです。邦訳刊行目前と聞く『フィネガンズ・ウ

ェイク』の〈ウェイク〉に〈通夜〉と〈目覚め〉の二義があることを想い起こして

います。あえて14号を自称しない今号は、庇護された大学のサークルとして

過去の「桟敷」への弔辞であると同時に、責務の泡波のあわいにありつつ

内的あるいは外的に書く破目におちいった同人による新たな可能的な同人

誌「桟敷」への第一声であるように思われるのです。              



 結びに、中村氏の最近の私信より−− 「遠雷や桟敷彩る花の文」。



                                       (服部)